トップページ>シンガープロ>今までに発行してきたシンガープロ一覧表
カラオケ生みの親 飛矢久良を偲ぶ会 「ありがとう歌ある人生」が、11月1日に大府市勤労文化会館でしめやかに行われた。
飛矢久良氏(1936-)は、2013年4月1日に肺がんのため多くの方々に惜しまれながら天国へ旅立った。そして11月1日、大勢の方々が集い、飛矢久良氏を偲んだ。飛矢久良氏は1991年3月発行の著書「私は会社経営のここに失敗した!」の中で述べているように会社倒産の憂き目に遭うなど波瀾万丈の人生を送られた。しかし歌にかける情熱は並々ならぬものがあった。「たかがカラオケ、されどカラオケ : 創始者が語るカラオケのすべて」飛矢久良 著の本の中に その熱い想いが語られている。
【ZMA総長 飛矢久良を語る(谷口靖典)】
夢、希望、ロマン、誰もが歌を愛することによって得ることができる人生の喜び。歌のもたらす幸せを誰よりも心に感じ、人の幸せを願い、幸せを音楽より広めた。
歌は一部の人が楽しものではない。大人も子供も誰もがいつでも楽しめるものにしたいと手軽に歌えるカラオケの制作販売会社を設立した。本来カラオケとは歌の入っていない演奏だけのものをいう音楽用語だったのに、それをは飛矢久良氏は、誰もが楽しめる歌うカラオケに変えたしまった。しかしそれだけでは飽き足らなかった。ただ歌っているだけではその内に飽きられてしまう。カラオケを音楽文化として定着したい。そこで歌の指導者養成に乗り出した。音楽の基礎を、人の心を理解する指導者を養成する全日本ミュージックアカデミーを設立。多くの指導者が彼の元に集い、妥協のない指導に途中座礁する人も数多くいたが、彼はカラオケ音楽文化の定着を見据え、そんな努力が認められ、世界デザイン博覧会を始め、数多くの文化団体から仕事の依頼が舞い込む。だが休むことなく走り続けた彼の身体を病が蝕んでいった。大動脈溜などの手術を乗り越えた彼であったが、今年4月1日、肺がんのため天国へ旅立っていた。しかし今もなお彼が残した理念は、歌の教えを引き継いだ多くの人々の間で生き続けている。
【飛矢久良氏のメッセージ(テープから)】
歌というのは作詞家・作曲家・歌い手さんの三本柱で成り立っています。一般的にはそうなんですが、私どもいわゆるプロの業界で言いますと、それに加えて、良き編曲家、良きディレクター、良きプロデューサー、良き出版会社、良きプロダクションと、大体7つから8つのジャンルの違う皆さん方の活躍によって歌が1曲ヒットする、あるいはヒットしないものもでてくるわけです。一般的には皆さん方はそこまで理解していただく必要はないわけですが、少なくとも作詞家、作曲家、歌手の三本柱が一体となって初めて、人の心に感動を与える歌が出来上がります。この辺まではご理解して下さい。日頃、歌の詩を理解しなさいとやかましく言われていると思います。作詞家、作曲家、歌い手の心がわからずして、大きな舞台で人の心に食い入るような歌は決して歌えません。
<飛矢久良氏の歌声(テープ)が会場に流れた後>
【谷口 靖典】
飛矢総長は、審査するのが仕事で、人生の中で一度も審査されたことがないわけですから、今日は、会場の皆さんに審査員になっていただいて、彼の今の歌声に何点差し上げるか、拍手で審査して欲しいと思います。(大拍手!)80点ですね。壇上の先生方の審査結果の20点を加算して100点満点!彼の優勝が決定しました。優勝賞品はハワイですが、彼は天の風に乗ってハワイに簡単に行けるので、別の贈りもの、それは、彼が我々に残してくれた音楽のもつ絆、手を取り合って元気がいただける環境を作っていくことを彼にプレゼントしたいと思います。
ZMA総長、本当にありがとうございました。あなたの冥福を皆で祈り、捧げたいと思います。黙祷
【ご長男様】
父は、音楽を通して社会に貢献するんだという気持ちは終始一貫していたように思います。今日は皆さんの歌声をたっぷり父に聴かせてやって下さい。
【追悼の辞 友人代表:多賀久郎】
飛矢さんの親しみやすい温かい人柄、企画力、類い稀な先見性などその人間力は偉大です。飛矢さんのまいた種は全世界に広がり、花を咲かせています。ZMAもまた永遠です。飛矢さんは間違いなく千の風になって生きています。
【追悼の辞 教授会代表:後藤亜子】
ZMA指導員一同、総長に出逢えたことで、理想の高い音楽とカラオケ文化に携わることができました。「歌の指導者である前に人として自分を磨きなさい。人格を持って歌いなさい。いつも謙虚でありなさい。」と教えられました。まだまだ未熟な私たちですが、夢、希望、ロマンを求めて前向きに歩いていきます。これからも天国から大きな懐で温かく見守って下さい。貴重な宝物をたくさん頂き、本当にありがとうございました。
【参 考】 シンガープロ調べ
1.カラオケの由来
「カラオケ」という言葉は「空(から)のオーケストラ」の略語で、伴奏用テープを指す業界用語であった。カラオ ケという言葉が成立した1970年代前半は、歌の伴奏が録音されたテープやレコードなどのことを意味しただけであって、初期から娯楽の名称として使用されたわけではないらしい。
カラオケという表現が初めて登場したのは、1956年に発行された松下電器ラジオ業部の社内報とされ、戦後混乱の中で宝塚歌劇の楽団員がストライキを起こし、オーケストラボックスに誰もいなくなった(空になった)様子を「カラオケになった」と表現 したと言われる。
2 カラオケ機器の発明者
1971年 は「カラオケ生誕の年」であると位置付けられているが、実際には 1960年代から1970年代にかけての時期に複数の技術者や販売者が、録音テープも含め カラオケ機器をさまざまに製造販売していた。
飛矢久良、根岸重一、浜崎巌、別区浩、山下年春、井上大祐、高城喜三郎、夏秋勇三、遠藤実、尾崎三徳、手塚昇之助、保志忠彦の12名の活動のいずれもが今日のカラオケを形成する重要基盤であった。